2025.05.29
保険業界の競争力を高めるデータ活用 ― 企業の枠を超えた連携の可能性
寺村 拓真

DXの進展や顧客ニーズの多様化など、保険業界を取り巻く環境は大きく変化しており、より柔軟な保険商品が求められている。こうした状況下で保険会社の競争力を高めるカギはデータ活用にあるが、保険会社単独で得られるデータには限界がある。今後に求められるのは企業の枠を超えたデータ連携であり、顧客自身がデータ活用を主導する新時代への対応である。本稿では、データ活用による保険業界の将来的な競争力強化への道筋について論じる。
1.保険市場・消費行動の変化
1.1変化する消費行動:所有から体験へのシフト
近年、カーシェアやサブスクリプションをはじめとする「必要なときに必要なだけ利用する」消費スタイルが急速に普及している。さらに新型コロナウイルス感染症の影響で自宅を起点としたオンラインサービスの利用や、外出頻度の低下なども相まって、シェアリングエコノミーの市場規模は年々拡大している[1]。人々の消費行動は「所有」から「体験」へシフトしており、かつては「何歳になったら車を買う」「家を買う」といった節目消費が主流であったが、現在では家族構成や用途に応じて柔軟に選択するライフスタイルが広がっている。
1.2保険業界への波及
こうした体験重視の消費行動への変化は、保険商品にも波及しつつある。所有物の所有期間中継続的に付保する長期契約型(1年契約の満期更新による契約を含む)から、旅行や趣味といった体験に合わせて契約する短期型やオンデマンド型の保険が普及してきている。シェアリングエコノミー協会の報告などでも、レジャーやイベントなど利用機会に合わせて保険を選択するケースが増加していると示唆されており、保険業界もこうした動向に対応した新商品開発が進められている。一方、SNS経由で他の利用者の評判を調べたり、スマートフォンで加入手続きを行ったりが当たり前となり、保険会社はより素早く柔軟に顧客ニーズに応えられる体制を整える必要に迫られている。

図1:シェアリングサービスと従来の保険との関係
2.保険業界が直面する課題とデータ連携の必要性
2.1保険業界が直面する課題
保険会社は契約情報やコールセンターの問い合わせデータといった多くの情報を保有しているが、その大半は事故歴や病歴といった保険金支払時に発生する事後的な情報である。一方、顧客のライフスタイルや思考といった新たな保険ニーズを捉える情報は乏しい。かつては代理店が顧客との接点となりこうした情報を吸い上げていたが、デジタル化の進展やデジタルネイティブ世代の台頭によりその接点は希薄化している。その結果、顧客ニーズに合う商品を設計し最適なタイミングで提案するために必要な材料を、保険会社単独で取得するのは難しくなっている。
2.2データ連携の必要性
こうした情報を正確に捉えるには、保険会社が保有するデータに加え、外部の多様なデータを活用することが重要である。そのためには、業界外とのデータ連携が不可欠である。現在、多くの保険会社は自社保有の契約情報や事故歴、問い合わせ履歴などを軸に顧客理解を試みているが、顧客は多様な行動を多様なサービスでとっており、そこにこそ保険ニーズを把握するための情報が潜んでいる。顧客の同意を得た上で、他業種からの購買データや移動履歴、健康情報などを取得し、自社保有データと組み合わせることで、保険会社は顧客のライフスタイルや思考をより正確に把握できる。これにより、顧客ニーズに合う商品を設計し最適なタイミングで提案を行うことができるようになるだろう。
3.業界横断のデータ連携とその限界を超える鍵
3.1データ連携の現状と限界
異業種間のデータ共同利用には、業界を横断する「横串」となる仕組みが欠かせない。その方式は、①企業独自の「顧客ID」を軸にデータを統合する方式、②ポイントなどの「サービス」を通じてデータを結びつける方式、の2種類に大別される。
前者の例として、中国の大手保険グループ「平安保険」が挙げられる。同社は独自の統合プラットフォームと顧客IDを核として、「医療」「移動」「娯楽」「生活」「金融」などの複数業種の情報を結び付けている。これにより、単独の業界では把握しきれない顧客の健康状態や生活習慣、購買行動を分析し、保険商品の最適化や医療支援の強化につなげている。GoogleやFacebookのログインIDを利用したソーシャルログインもこの方式の一例と言える。
後者の例としては、国内で普及しているポイントプログラムが挙げられる。小売業、飲食業、交通業など複数の業種がデータを共有し合うことで、顧客の行動データを包括的に収集し活用している。これにより、各企業は単独では把握できない顧客の行動や嗜好を理解し、それに基づいた最適なサービスやプロモーションを提供している。
しかし、これらの取り組みは特定の企業間の提携範囲に限られており、汎用的なデータ連携を実現できているわけではない。プラットフォーム圏やポイント圏の外にある顧客行動は「ブラックボックス」となり、企業にとっては貴重なインサイトを獲得できず、真の顧客中心サービスは実現しにくい。

図2:異業種間連携の2つの主たる方式
3.2マイナンバーが切り拓くデータ連携の可能性
前節で述べたように、異業種間におけるデータ共同利用は新たな付加価値を生み出す可能性を持つものの、既存の仕組みでは連携範囲が限定される。その打開策として注目するのがマイナンバー制度である。日本では、行政手続きの効率化を目的にマイナンバーの普及が推進されてきたが、健康保険証や運転免許証との一体化など、利用範囲拡大の動きも進行している[2]。マイナンバーに紐づく顧客の基本情報(氏名、生年月日、住所、性別など)により企業間での名寄せが可能になれば、顧客がどの企業のサービスを利用していても一意に個人を特定し、ライフステージやリスク要因を包括的に把握できると考える。これにより、ポイントプログラムや企業独自のプラットフォームとは異なる、より汎用的なデータ連携基盤が生まれ、保険会社は顧客のニーズにきめ細かく対応した商品設計や顧客サポートを提供できるようになると期待される。
シンガポールでは、「Singpass(Singapore Personal Access)」と呼ばれる国家規模のデジタルIDを通じて、行政手続きや公共サービスをオンライン上でシームレスに利用できる環境が整えられている。さらに、Singpassと連携する「Myinfo」という仕組みを活用することで、政府が保有する個人データ(氏名や住所、納税情報など)をユーザー本人の同意のもと、民間サービス(銀行口座開設、保険契約など)でも必要な情報を簡潔に提供できるようになっている[3]。現時点ではMyinfoが扱う情報は政府保有データに限られており、保険会社や銀行など民間企業が独自に保有している詳細な契約情報までは含まれない。しかし、将来的にユーザーの同意を前提として、民間企業が保有するデータも集約・共有できる仕組みが整えば、行政手続きだけでなく、さまざまな業種間でのサービス連携が大幅に進む可能性があると考える。
3.3マイナンバー活用に伴う課題と向き合い方
マイナンバーを活用したデータ連携は、利用目的・範囲について顧客が自ら同意していることを前提とする。そのうえで前節のような恩恵を受けるためには多くの課題がある。第一に法規制における課題である。現在の日本の法制度では、マイナンバーの利用範囲は社会保障・税・災害対策などに限定されており、保険会社を含む民間企業が自由に利用できるわけではない。プライバシーリスクへの懸念もあり、匿名化技術や暗号化手法を活用して、データの安全性を担保したうえでどこまで民間利用を許容できるかは、慎重な議論を要する。
第二に技術面・セキュリティ面の課題である。実際にマイナンバーを活用して企業間データを連携する場合、セキュリティ確保やシステム標準化、API連携の整備など、多岐にわたる技術的課題がある。企業間のガバナンス設計や情報漏洩対策も重要であり、透明性の高い運営と強固なセキュリティ対策が求められる。
第三にステークホルダー間の調整である。データを連携するには、一社だけの意向ではなく業界団体や行政、医療機関、金融機関など多様なステークホルダーとの調整が不可欠となる。制度改正への意見集約や、運用ガイドライン策定への協力など、保険業界が自ら積極的に取り組みをリードする姿勢が重要である。
4.将来展望:顧客が主導する保険の新しいかたち
マイナンバーを活用したデータ連携が進めば、保険会社は「万一の時の保障」だけでなく、日常生活や予防段階での支援を含む総合的な提案ができるようになる。
例えば、旅行などのアクティビティ情報を開示すれば、予定しているイベントにあったプラン、さらにはイベントそのものも提案できるようになる。最近ではマイナンバーを用いたライブチケットの購入が広がりつつあるが、これは転売防止を目的とするだけでなく、「いつ・どのようなイベントに参加したか」という情報を個人に紐づけて管理することにもつながる。ライブ鑑賞が趣味の顧客であれば、遠征時の旅行保険や不測の事態に備える補償を自動的に提案するといった、より細やかなサービス展開が期待できる。
ここでポイントとなるのが、前節にある通り、顧客が自ら同意した範囲でのみデータ連携が行われるという点である。顧客自身が情報の開示をコントロールし、その情報をもとに企業はパーソナライズされた価値を提供する。企業が顧客を囲い込む従来型モデルとは異なり、顧客は多様な選択肢から最適なサービスを主体的に選べるようになり、結果として“顧客主導”のエコシステムが成立する。
そうなると保険会社は「顧客体験価値の創出」を競う次元へと拡張していくことになる。顧客が情報を開示したくなる環境を整え、そこから生まれるデータを活用して最適化されたサービスと付加価値を提供できるかが、新たな顧客ロイヤルティを生み出し業界内での優位性を左右する重要なポイントとなる。体験価値の最大化が今後の保険ビジネスのカギとなり、従来の枠組みを超えた新しい競争が本格化すると予想する。

図3:データ連携・活用の進展による進化ステップ
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[1]
シェアリングエコノミー協会「シェアリングエコノミー市場調査 2022年版」
https://sharing-economy.jp/ja/20230124 -
[2]
デジタル庁「マイナンバー制度」
https://www.digital.go.jp/policies/mynumber -
[3]
Singpass 公式サイト
https://www.singpass.gov.sg